大阪寿司

大阪では、各地で甘味の効いた箱ずしや混ぜずし・太巻きずしなどが家庭料理として伝承されており、大阪のすしの文化の特徴といえます。「大阪ずし」とは、これら大阪の一般家庭のすしを総称する語というより、(握りずしが生まれる以前は「すし」といえば箱ずしが当たり前でしたので)他の握りずしなどに対する「大阪の箱ずし」として表現することの方が多いようです。

「恵方巻」として全国に広がる「節分丸かぶり」の風習
大阪の船場、花街が発祥地です

旧暦の1年の区切りである節分(立春の前日、冬から春への節にあたる日)は、過ぎ去ろうとする年の厄払いと、新しい年の幸運を願うため、古くから日本各地で鬼を追い払う「豆まき」や、様々な縁起かつぎの行事が行われてきました。その一つが大阪発祥の「節分丸かぶり」で、節分の夜にその年の恵方に向かって巻ずしを丸かぶりすると願い事が成就すると言い伝えられてきました。

幕末~明治時代から節分の縁起かつぎに

この風習の起こりについては諸説ありますが、風俗史研究家・岩崎竹彦氏(岡山県新見市、新見国立短期大学助教授)によりますと

  1. 幕末から明治時代初期に大阪・船場の商人が商売繁盛、無病息災、家内安全を願ったのが始まり。
  2. 船場の花街で働く女性が階段の中段に立って、巻ずしを丸かぶりすると願い事が叶ったという故事に因む。
  3. 船場の旦那衆が節分の日に行った艶っぽい遊びが発端。
  4. 節分の頃は新しい香の物が漬かる時期で、江戸時代中期、香の物入りの巻ずしを丸のまま恵方に向かって食べ、縁起をかついだ。

–などを紹介し「いずれも発祥地は大阪とみていいでしょう」と話しています。(朝日新聞2004年1月16日付から転載)

いずれにしても、昔から長いものは縁起がいいとされており、「晦日そば」同様、巻ずしも長いまま食べる習慣や、包丁を入れると縁が切れるとの縁起かつぎにもマッチしたようです。

古くは春の七草を巻き込んだという説もありますが、現在では各店が海の幸、里の幸、山の幸を巻いた色々な巻ずしを販売しています。おめでたい「七福神」にあやかった7つの具材の巻ずし、豪華な食材をたっぷり入れた太巻き、野菜など巻いたヘルシー巻などバリエーションも広がっているようです。

昭和初期に大阪鮓商組合が販促チラシ

大阪・心斎橋で江戸時代末期(文政12年、1829年)創業のすし店「本福寿司」には、昭和7年に大阪鮓商組合が作った「巻寿司と福の神 節分の日に丸かぶり」と題したチラシが所蔵されています(別掲)。当時の値段は1本15餞でした。当時の組合が2月という比較的暇な時期にすしを販売しようとする思惑もあったようです。
最近ではコンビニ、スーパーのお陰で全国に広がりを見せているのは大変うれしい限りです。しかし、長年の経験を積んだすし職人が、手間ひまかけて具材を調理した本物の美味しい巻ずしでこそ、節分のきっしょを祝っていただきたいものです。

回転すしのルーツは大阪の「元禄寿司」
アサヒビール吹田工場の製造ラインでひらめき!
昭和33年(1958年)、東大阪市に1号店を開店

すし業界に一大変革をもたらした回転すし、その元祖は大阪府東大阪市の「廻る元禄寿司」本店、近鉄・布施駅前の一等地に、紫色のトレードカラーの看板、のれんで盛業中。オーナーは元禄産業(株)代表取締役の白石博志さん(62歳)。

創業者は先代の白石義明さん(平成13年、88歳で他界)。出身は愛媛県で、20代後半に中国大連で天ぷら割烹店を開き大繁盛。

帰国後の昭和22年、布施市(現・東大阪市)で割烹料理店「元禄」を開店、はやりはしたがツケの多さに嫌気がさして、すし屋へ転換。町工場が多い庶民のまち、地方から集団就職でやってきた若者たちにも安くおいしいすしを食べてもらいたいと始めた。

繁盛したのはいいが、忙し過ぎて「しんどい(体がきつい)」と辞める職人が多く、「何とか職人の手間を減らす方法はないか」と考えたのが、すしを回すこと。そうすれば職人はどんどんにぎるだけでいい。

アイデアが生まれたのは、地元の飲食組合で見学に行ったアサヒビール吹田工場。ビール瓶がコンベアで大量に流れていく様を見てひらめいた。さっそく地元の鉄工所の親父さんらと酒を酌み交わし、すしを回すレーン作りの知恵を絞った。

最初は鉄で作ってみたが錆びついてしまい、合板でもうまくいかず、試行錯誤の末、ステンレスにたどり着いた。特に苦労したのがレーンの曲がり角だが、三日月形を組み合わせることで解決した。完成までに4~5年かかった。

そのレーンを使って「廻る元禄寿司」1号店を東大阪市にオープンしたのは昭和33年4月。暖簾越しに見えるすしが回る様を見て、「すしが回ってる!」と、まず子どもが飛びつき学校に話題を広めてくれた。回転ずし誕生から早や62年になる。

2年後の昭和35年にミナミの道頓堀、中座前に「道頓堀店」を1皿50円で開店した。老舗すし店、名代店の多い界隈だけに「何ですしが回るねん」「すぐに潰れるわ」と冷ややかだったが、安くすしが食べられると庶民の共感を得た。当時、すしは高級な食事だった。

昭和50年、白石さんは回転するカウンターを「コンベア付調理食台」として特許を取得。45年には大阪万博に出店、優良施設として万博協会や大阪府から表彰された。その後も大阪府内を中心に出店を続け、最盛時にはフランチャイズ店を含め全国に250店を超えた。

昭和59年、特許のパテントが切れると、石川県のメーカーがレーンの製造を始め、やがて全国に回転すしブームが到来。日本ばかりでなく健康食志向もあって世界に「すし」が広がっていった。

現在、直営店は大阪府下中心に11店。食品衛生や食材の管理やサービスが行き届かないため、子飼い(店で修業した従業員)の店以外はフランチャイズを解消した。

二代目の博志さん(62歳)は5人兄弟の下から2番目の長男、店の2階が住まいだったため小学生高学年から、魚の仕込み作業などに携わり、父親の「お客さんに喜んでもらって自分も喜ぶ」を座右の銘に頑張っている。「お年寄りにも分かりやすいように」と全店1皿130円均一。にぎり、軍艦、野菜や洋風創作すしなどメニューは約80にもおよぶ。

なお、先代は発明家としても有名で、業界に変革をもたらしたコンベア付調理食台はじめ自動給茶装置、にぎりすし製造装置の他、組立ベッドハウス、ドライバー真空ネジなど特許を取得。パテント料など収益を寺社や社会福祉へ多額の寄付をした。

「廻る元禄寿司」本店は近鉄・布施駅前南側、TEL:06・6727・8209。