平成14年10月20日号
第518号
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(H15.11.5大阪大会テーマ)
理事会からのご報告
 大阪大会、2002大阪すし祭りについて
<全すし連「大阪大会」>
埼玉大会にはきびしいなかにもかかわらず、大阪から大挙80人が参加、「来年はくいだおれのまち大阪へおこしやす」と、全国から多数の来阪を呼びかける。
<2002大阪すし祭り>
組合の年中最大イベント「2002大阪すし祭り」が今年も11月12日(火)、堺市じばしん南大阪で盛大に多彩に開催される。

業者にとってもっとも魅力なのは「すし用品超特価特売市」、商友会会員を中心に「組合員の経営に役立てれば」と、目玉商品をたくさん用意して出展、年末年始の商材予約のチャンスだ。
大阪代表の奮起に期待「技術コンクール」
 大阪組合から23人が出場
競技種目は「大阪ずし」と「にぎりずし」の2部門。

上位入賞者は来年2/18に東京新宿の京王プラザホテルで開かれる「第7回全国すし技術コンクール大会」へ出場する。
大阪ずしの伝統 伝え、広げよう(福寿司)
 (中編)今井さん母娘が大奮闘
大阪のすし屋は江戸〜明治時代初期まで筥鮓(はこずし)ばかりで、幕末の頃になると、巻鮓が流行り出す。当時のすし屋はもっぱら店売り(テイクアウト)と出前(デリバリー)だった。ところが江戸からにぎりずしが進出した明治時代後半から今で言う「立ちの店」が誕生する。

大正13年4月、伸次郎氏の後を継いだ敬子さんの父・安造氏が大阪鮓商同盟会の9代目組合長に就いた。大正後期には「寿栄会」が結成された。これはそのころの良き時代の写真である。ところが人のいい父親が裏判を押したばかりに莫大な借財を抱え、今井さん一家は逃げるように京都へ移ることになる。昭和14年に父が他界。「福寿司」が心斎橋から消えた。

ここから母・タネさんと敬子さんの奮闘が始まる。「なんとか心斎橋でもう一度すし屋を」と母と娘が身を粉にして働いた。「目的があったから頑張れたんです。先祖から祖父へ、そして父へ受け継がれた店を、大阪ずしの仕事を絶やしたらあかん」と。昭和29年「福寿司」は復活。敬子さん35歳の春だった。(以下次号)
お国自慢・郷土のお寿し「釣瓶鮓 弥助」吉野下市
 (前編)長年仙洞御所へ献上
国道309号線を天川村方面へ向かう下市の旧街道沿いに「弥助」はあった。歴史を彷彿とさせる風格と立派さにまずは驚いた。

「弥助」が一躍「各」を与えたのが、京都仙洞御所への鮎ずしの献上する総責任者になってから。献上はその後220年近く続き、その証は御所から拝領した「御上がり鮓処 御鮨屋弥助」と彫られた看板として残る。

吉野の押しずしが釣瓶鮓といわれた所以は、すし桶が井戸の釣瓶に似ているところから。「弥助」には明治期の黒光りした桶が今に残る。釣瓶鮓の作り方を簡単に言うと、鮎を開いて水洗いし、塩漬けしてから腹に飯を詰め、それを桶に並べて押しをかけ、熟成させる。

釣瓶鮓を語るうえでさけて通れないのが人形浄瑠璃「義経千本桜」平家没落に伴う悲恋物語で、釣瓶鮓はもっとも見せ場の三段目「鮓屋の段」に登場する。現釣瓶鮓の当主・宅田弥助氏によると「先祖の弥左衛門は小松内大臣、平重盛に仕えた人と伝えられます。また吉野には平家にまつわる秘話が多く、義経千本桜の物語もその辺にヒントを得たのかもしれませんね」と話す。(以下次号)
支部だより(東淀川支部・南支部)
<東淀川支部>城崎温泉へ総会を兼ねて旅行
東淀川支部(伊林清治支部長)は9/17、18両日、総会を兼ねた懇親旅行で城崎温泉「西村屋本館」へ出かけた。参加者は12名。

今回の旅行は、日頃の疲れを癒すことを目的に、のんびりリラックスした旅となった。
<南支部・南寿懇親会>有馬温泉から六甲山をぐるり
南支部(井上正典支部長)の親睦旅行会、南寿懇親会は10/6,7両日、有馬温泉から六甲山をぐるり回るコースで開催された。

参加者は八木ひろし府議、半田理事長ら来賓と、協賛商社ら36人。